化学史を少し調べてみると錬金術師たちは、金は生みだせなかったが副産物として合成化学の発展に貢献したことが分かる。金を追い求める過程で蒸溜技術やさまざまな実験器具が考案されたり、偶然の化学反応で新しい物質を発見するといった副産物をもたらした。また実験の試行錯誤の過程を記録し再現性を確保することの重要性も認識されていたようだ。
金融の世界ではHFT(高頻度取引)でマイクロ秒の単位での取引も行なわれ、データ量も膨大となり様々な時系列分析や機械学習アルゴリズムが使われるようになってきた。特に株価予測は古くからテーマでテクニカル分析やファンダメンタル分析が研究されている。様々なアナリストやクォンツが活躍する場面も多いことだろう。しかしファイナンス理論の通説では株価はランダムウォーク過程に従い過去の価格の動きから予測できないとされている。確率論のマルティンゲールに基づく効率的市場仮説でも同様の主張がなされている。これら仮説が仮に正しいとしても、数理科学的な分析はその過程で多くの副産物をもたらす可能性がある。例えばポートフォリオのリスク管理技術が向上するとか市場の価格形成メカニズムの掘りさげた分析でよりよい市場制度設計に進化させることが考えられる。ここで重要なのは限られたプロの研究者や専門家の研究だけでなく、広く、市井の素人研究家がこの課題に取り組むことだろう。実際のデータを統計的モデルで処理し試行錯誤を重ねる過程で多くの副産物が生みだされる可能性が高くなる。そのことが金融市場に造詣の深い一般人が多く生まれ、金融市場の発展に大きく貢献することが期待される。
ここで素人研究家が取り組むテーマは多いだろうが、財務分析について取上げてみる。
財務分析では期間比較をしたり特定時点での対前期比、比率分析などが行なわれるが、ここに統計分析の視点を取り入れることは重要なテーマになるだろう。会計データはその性格上、会計期間、ゴーイング・コンサーンといった会計学の重要な前提に基づいて測定され分析される。制度会計では重要なテーマである。制度会計ではデータは年次、四半期毎、月次、日次といった相対的にゆったりとした時間単位で計測されるが金融市場のデータは秒やミリセカンドなど微小時間で計測され、かなりのギャップがある。株価、為替相場や金利は秒単位以下の微小時間で変化している。
ここでゴーイング・コンサーンを前提とする企業を宇宙船にたとえるならば、宇宙船が秒単位でどのような軌跡をたどって現在に至り、現状はどの様な状態にあり、これから何処に向かおうと計画し、連続した時間の流れの中で予測・制御が適切に機能しているか管理することも重要なテーマである。将来的に電子取引が全面的に一般化すればリアルタイムでの決算処理も可能となる時代が来ることだろう。その時には損益計算書は加速度計のような役割を果たすかも知れない。
統計的分析と会計的分析の違いを探るために単純な物語で考えてみたい。ある国道沿いで生真面目な夫婦が小さな食堂を経営し、毎年なんとか細々と生計を立てていた。ある年の12月に大雪があり、交通が渋滞気味になってしまった。たまたま観光バスの団体客も渋滞に巻き込まれたこともあり、食堂は大繁盛で3ヵ月相当の売上げがあった。もし食堂の決算期末が12月末であれば会計原則や税法では当然に、この臨時売上げも正当な売上げとして計上し納税もしなければならない。しかし財務分析の視点では経常的な収益力を把握しようとする場合にはこの臨時売上げは異常値として除外するという統計分析的な考え方もる。たとえば夫婦が食堂拡張の設備投資の融資を銀行に申し込んだ場合に審査がすんなりと通るかどうかは疑問である。しかし気象専門家の間で今後は12月には大雪が常態化することが通説となっていれば話しは違ってくるだろう。統計的に12月の売上げは増加するという季節変動パターンが定着してくれば正常な収益力と評価されるだろう。会計数値としての売上高は会計ルールに従って計上された正確な実績値である。ところが真の正常な売上高(これは実際には観測できない数値)をどのように計測するかという話になると様々な考え方がある。
例えば統計学(特に時系列分析の分野)では状態空間モデルという考え方がある。人間が実際に観測して得た実績値は見えざる真の数値に観測誤差が加算されており、幾つかの状態方程式とその誤差から構成されていると考えて、そのモデル構造を推定しようと試みるものである。実績値の背後に隠れている誤差を含まない真の数値を探ろうとするものである。現実に経済活動して得た事象を貨幣評価して記録する財務データは大なり小なり偶発的事象の影響を受けざるを得ない。マネジメントの能力で管理可能な事象もあれば全く管理不可能な事象も起こるが、それを事実として正確に貨幣評価して会計記録される。この様にして得た実績値には様々な偶然的な誤差が含まれているので、ノイズの背後にある潜在的なトレンドなどを探る試みは財務分析でも重要である。
簡単な例を挙げたい。会計ルールでは外貨建の金銭債権債務や投資目的有価証券は決算時レートで換算される。決算時レートといっても3月決算の会社であれば3月末の営業日のレートだということは分かるが具体的に何時何分何秒の時点のレートかは特に決められていない。一般的にはメインバンクが午前10時頃に公表する対顧客レートが使われることが多いかも知れない。しかし、資金管理センターをニューヨークに置き、そこでグループ全体の資金を一括管理しているような場合はニューヨーク時間の為替レートを適用するかも知れない。米国の要人発言一つで2円くらいドル安になったりする事も珍しくはなく決算時レートといっても不安定なものである。3月末日に一時的にドル安となったとしても翌日には元に戻っているかもしれない。財務分析ではROEを計算することが多いが分母の純資産が一時的な為替変動の影響で上下した場合には正常な経常的なROEをどの様に計測するかは重要な課題となるだろう。ボラティリティの高いときには世界の要人発言一つで為替相場が乱高下することはしばしば見られることであり、たまたま決算期がその時期に当たると為替差損益も、従って純資産も大きく変動しやすい。ここで状態空間モデルの視点を取り入れればカルマンフィルターを通して得た平滑化した為替レートを参考に純資産の調整することも可能となる。また投資有価証券の評価も同様で3月31日の取引所の終値が1000円だったとする。取得価格が1200円であれば200円の評価差額を計上し純資産がそれだけ減少する。しかし3月31日の大引け直前に何処かのヘッジファンドがたまたま資金調達のため大口の売注文を出したので瞬間的に1000円となったが、翌日には多くの押し目買いが入り1300円になった。あの評価差額は一体何だったのだろうと思うことはしばしば体験することである。
アナリストが財務分析をするときには一定の時点や期間の実績値、あるいは対前期比を見るだけでなく潜在的なトレンド、傾向などを探ろうと試みる。現実的な事象についてどこまでが偶発的なノイズと見るかは難しい問題だろうが統計的手法により潜在的なトレンド(小刻みな循環変動を伴う上昇トレンド、下降トレンド、横ばいか、あるいはボラティリティクラスタリングの状態かなど)を探る分析は長期的な経営判断にとっても重要となる。投資家も特定の時点や特定の期間の数値の変動のみに目をうばわれてバタバタと売買を繰り返していると良い投資成果を得ることは難しいだろう。
もちろん、税金や配当金は多数の利害関係者の利益に関わってくる問題なので特定の期間や時点を定めて現実に観測できる実績値を使わざるを得ないだろう。公平性や法律関係の安定性などの担保のために厳格な画一的なルールで計算する必要はあるだろう。それでも財務分析においては潜在的なトレンドなど観測できない状態を推定する自由な発想や柔軟な思考が必要とされてくるだろう。
ポートフォリオのリスク管理では分散、ボラティリティといった指標を分析して不確実性の高い経済に対応しようとするが会計の世界でも古くから不確実性に対応する手法は考えられていた。最近の会計学の教科書ではどの様に取り扱われているか読んだことがないが1965年頃の教科書では会計公準の一つとして保守主義の原則が取りあげられていた。大ざっぱに言えば損失や費用の認識は出来るだけ早く行い、収益の認識は慎重に行いというものである。この考え方はリスク管理の視点からみると不確実性に対処する一つの考え方とも解釈できる。これをもっと理論的に数理モデルとして練りあげれば会計上のリスク管理モデルが生みだされるようにも思える。ここでも状態空間モデルが応用できるかもしれない。
財務データの例として便宜的に株価を使うことが多いが1株当たり利益やその他の財務指標が入手できれば、それを使って同様の分析が出来る。決算短信では四半期のデータしか得られないがスプライン補間やカルマンフィルタの欠測値補間の手法で月次データを推計する研究も行われているようだ。状態空間モデルの応用の可能性は高いように思える。素人研究家でも利用できる実験・分析用具、ソフトウエア(例えばR のパッケージ KFAS) などは整ってきている。実験・分析の再現性についてはデータとプログラムのソースコードを開示すれば第三者は容易に検証できるだろう。
カルマンフィルターの簡単な計算例を探究 with Excel and R (Kalman filtering and smoothing with Excel and R)
日次の株価変動分析 ローカル・リニア・トレンド・モデルを使って株価予測、機械的予測の問題点
with KFAS