村上巌(ムラカミ イワオ) (俳号 村上麓人(ロクジン))

洗礼名、洗者ヨハネ。明治41年(1908)年5月に京都で生まれ、15歳の時に岸田劉生に師事した。岸田劉生には我が子の如く可愛がられた.。その様子は岩波書店で1979年に発行された岸田劉生全集第9巻の大正13年の日記からうかがえる。大正13年5月11日の日記では「...昨日来た村上氏の息といふまだ子供々々した可愛い少年が畫を三枚持ってくる。...」6月1日「....村上少年いちごの畫を持って来訪、少しなほしてやる。...」 6月17日「...夜村上少年やって来る。今日から家の人となる。...」。15歳の頃、少年肖像(岸田劉生作)のモデルになり、当時の思い出をテレビでも語っていた。このころに麗子像で有名な麗子と一緒に習字を習ったりしていたようだ。この日記に出てくるいちごの絵は生前に大事にしていたが、小さな紙切れに鉛筆でデッサンしたもので、この線が劉生が直してくれたものだと聞いたことがあるが、もちろん署名もなく劉生の書いた線などと証明できる証拠は全くない。しかし、本人には大切な思い出の紙片だったのだろう。結局、劉生が30代の若さで亡くなったため、その後は梅原龍三郎に師事した。昭和15年に国画会創作協会第5回展にて樗牛賞受賞した後に昭和18年の文展第6回展にて「少年立像」で特選を授賞した。国画会創設以来の会員で主な作品は風景画と人物画が多い。俳句もたしなみ、戦後に出ていた雑誌「人間」のカットを気に入った俳人、石田波郷との縁で石田波郷主宰の俳句雑誌「鶴」の表紙、カットなども描き、本人自身も麓人という俳号で多くの俳句を作り、俳画も多数描いていた。平成5年8月帰天。 

夫を長年支えてきた妻マリア千鶴代は102歳10ヶ月の天寿を全うし平成28年3月復活祭の当日に帰天。ともにカトリック五日市霊園に眠る。

 

少年肖像(岸田劉生作)

 

無名で偏屈な画家だったのでたいした記録は残されていないが

俳句雑誌  馬酔木 平成5年10月号

俳句雑誌   鶴   平成5年11月号

短歌雑誌  コスモス 平成5年10月号 

などで村上厳の追悼記事が掲載されている。

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(ご参考)

オンラインでの閲覧はできないようだが、国会図書館での書誌番号(JP番号)などは下記の通り。

鶴      書誌番号00015551

       書誌ID 000000015449

       請求記号 Z13-702

馬酔木   書誌番号00001095 

                書誌ID  000000001082

        請求記号 Z13-68

コスモス  書誌番号00008678

                 書誌ID 000000008614 

        請求記号 Z13-366

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エッセイとしては

 耳ぶくろ  文春文庫 株式会社文藝春秋 1986年10月10日

多数の作者のなかの一人として、「体当たり」が採りあげられている。

ほかには

2022年1月30日発行
京都国立近代美術館のコレクションでたどる

岸田劉生のあゆみ (とんぼの本)
著者 梶岡 秀一、岸田 夏子
発行所 新潮社

の中で京都時代の劉生に関する座談会が掲載されており、そこに村上巌も参加している。  

短歌雑誌 コスモス 平成5年10月号のなかで歌人宮英子が巌夫人から見せてもらった梅原龍三郎の頒布会推薦文について語っておられる。その推薦文の画像(ウォーターマーク付き)は以下のようなものである。多分、20代半ばの若い絵描きで生き方が無器用であまりにも世間離れしていたので、周囲の人々が見るに見かねて頒布会を考えてくれたのだと思う。

頒布会推薦文

子供のころから周囲の人々を見ていて感じたことだが芸術家や文芸家は変わり者と言われるよう人が多い気もするが、その人なりの社交性とか外交能力が備わっている人が成功しているようにも思える。 全く社交性や外交能力に欠如している場合には、その配偶者が有能なマネージャーとしての素質を持っているとか関連業界の大物でしかも気まぐれでないパトロンに気に入られるといった幸運にでも恵まれない限はその道一筋で糊口をしのいで生きぬくことは大変なことだろう。これはいつの時代でも同じことなのだろう。

   戦前の独身時代には美術評論家の福島繁太郎の家によく出入りしていたそうだ。繁太郎と慶子夫妻が旅行で長期不在になるときにはよく留守番を任されたそうだ。大変に大きな邸宅で住み込みの若い女中さんも多くいたそうだが、慶子夫人から、この男ならおかしな問題を起こす心配はないと信頼されていたようだ。画家としての評価はいま一歩といったようだったが何かとかわいがられていたようだ。後に結婚して夫婦で挨拶に行ったときには、慶子夫人から「あんた、よくこんな男と結婚したねえ。生活が大変だよ」と妻に言われたそうだ。その慶子夫人も字書きは評価して、「あんたは絵描きより字書きのほうが向いているよ」とよく言われていたようだ。戦時中は静岡県の御殿場市の二の岡に疎開したが、終戦間際になって兵役に招集された。しかし、入隊後にすぐに足の壊疽に罹り入院中に終戦となったそうだ。除隊後には御殿場の疎開仲間の紹介で静岡県裾野市にある温情舎という学校に絵の指導に通っていたようだ。温情舎は後に不二聖心女子学院小学校・中学校・高等学校 になったが、多分昭和25年頃から29年頃まで絵の指導に通っていたようだ。本人(巌)は大変な雷嫌いで、雷がなり出しそうな空模様になると部屋の押し入れに布団をかぶって隠れる習性があった。空がピカピカし出すと学校に授業がある時でも押し入れに閉じこもるので、仕方ないので妻が勝手に代理で学校に行って生徒に絵を描かせて持ち帰ってきたそうだ。妻が責任者のマザー(今ではシスターと呼ばれているが当時はマザーとよばれていた。シスターという人もいたが修道院で掃除をしたり良い香りのするクッキーを焼いたり忙しそうにしている若い修道女といった子供の頃の記憶がある)に代理できた事情を説明したところ、「さようでございますか。それは大変なことで。どうぞお大事になさいませ」と特に咎められることもなかったそうだ。大変にのどかな時代であったと思う。昭和30年に東京に転居したが不二聖心女子学院 との関わりが続いていたようで、1990年代に関係者から「温情の灯」という字を書くように依頼があり、それが石碑に使われたようである。字書きとして認めてくれた福島慶子夫人の評価は当たっていたのかもしれない。

 

 

村上巌作品

 

風景


静物


麓人句集



岸田劉生の思い出を語る

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